オーストラリアの歴史 8

「ボールド・ジャック・ドノホー」程、大胆不敵であった囚人はほとんどいませんでした。


彼ほどの悪名を馳せた者もいません。


囚人の中には、追われる身より、追う身を選んだ者もあります。


ロンドンで御者をしていたイスラエル・チャップマンは、街道沿いに出没する盗賊で、1818年にオーストラリアに流されました。


しかし1821年に条件付赦免を得ると、そのまま警察隊に入隊。


ジョージストリートにあるシドニー駅所属の刑事巡査となったのを振り出しに、後には「ジョージストリートのランナー」として知られる様になったのです。


チャップマンは1829年にロンドンに戻りますが、1832年には、自由入植者として再びオーストラリアの土を踏みました。


その1年後、植民地政府は6人の監督官の1人としてチャップマンを指名しています。


個人の下で働き続けた囚人達も、生活に安らぎを得ることができました。

オーストラリアの歴史 7

最も凶悪な囚人達は、ポートマックワリ、モレトンベイ、ノーフォーク島、ポートアーサーといった、過酷な条件の刑務植民地に送られました。


ニューサウスウェールズのダーリング総督、タスマニアのアーサー総督の下での生活は、ほとんどの囚人にとって困難を極める生活でした。


入植の拡大に伴って必要とされた道路や橋を建設する公共事業で働く囚人達は、1本の鎖につながれました。


逃亡に成功した囚人達は、山賊となります。


あまりに山賊の動きが目立ったため、ニューサウスウェールズ立法議会は、1825年までに、植民地各地で山賊団を組んでいた大胆不適な盗賊達の動きを封じるため、「迅速かつ断固たる手段」を講じる旨を、満場一致で決議しました。


「ボールド・ジャック・ドノホー」は最も悪名を馳せた盗賊の1人です。


1823年、ダブリンに生まれたドノホーは、「重罪を重ねた」ため有罪を宣告され、1825年にオーストラリアにやって来ました。


1827年から1829年にかけての2年半、ドノホーと脱獄者仲間の一味はバサーストからヤスにかけて、またイラワラからハンターバレーにかけてニューサウスウェールズをさまよい歩きました。


1830年9月、彼はチャンプベルタウンで警察官の弾丸に倒れました。

オーストラリアの歴史 6

ブリテン諸島の抵抗と暴力も、同様にニューサウスウェールズに運び込まれていました。


膨大な人数にのぼる囚人の統制には困難が伴いました。


いきおい、犯罪に対する刑罰は、しばしば残忍な形をとるようになったのです。


1820年代半ばにニューサウスウェールズで犯罪を犯し、有罪となった者の中には以下の罪人がいました。


ジェイムズ・ファロス

・・・警官の前で強盗を働いた事実を自白し、その後法廷の場ではこの自白を否認したにもかかわらず、盗品の隠し場所を白状するまで、毎朝苔打ちを続けるという判決を下されました。


この結果、彼は時計を1個手放しました。


ジェイムズ・ブラックバーン

・・・賭博仲間の4人の名を自白するまで刑務所に拘留され、パンと水のみの食事をあてがわれ、毎朝2
5回の苔打ちを受けました。


ウィリアム・アール

・・・サミュエル・マースデン牧師所有の領地の掃除人であったが、ダグラス博士に渡す為に、ジョン・ドゥラッシュから託された完全赦免状を隠匿しました。


この赦免状の隠し場所を告白するまで、パンと水のみで牢につながれました。

オーストラリアの歴史 5

1790年代、1800年代初期には、アイルランドでの政治的、社会的抗議活動が高まり、その結果流刑囚の中にアイルランド人が占める割合はかなり高まりました。


おそらく、1815年以降にオーストラリアにやって来たアイルランド人囚人の、5分の1はこの様な反政府活動に加わったために有罪判決を受けていたものと思われます。


その他の者は、様々な問題を抱えていたアイルランドの社会状勢の影響を間接的な形で受け、オーストラリアに送られるはめとなっていました。


19世紀初頭、アイルランド地方部は依然として混乱状態にありました。


増え続けていた人口は、わずかな作物を頼みの綱としていたため、大部分のアイルランド農民の生活は、じゃが芋の収穫量の良し悪しにかかっていました。


この様な状況の下で、単純な暴力事件が続発したのです。


一族同志の確執のため、アイルランド人の中で争いがおこり、一族もろともオーストラリアに送られました。


1830年にオーストラリアに向かったある船は、9人の殺人犯をのせていましたが、この9人は4家族から出た犯罪人でした。


1835年に出港した別の囚人輸送船は6組の兄弟、2組の親子、3人兄弟をのせていました。


一方、1839年のミネルバ号に乗船した100人のアイルランド人女囚のうち、21人は身内から囚人を出し、同じ船で護送中であるか、すでにニューサウスウェールズに送られている状態にありました。

オーストラリアの歴史 4

その他の囚人達は、工業化が始まると間もなく生じた、反社会活動という直接的な抗議活動に加わって流刑を宣告されていました。


1812年から1822年にかけておこったラッタイトの反乱では、雇用条件に対する抗議の手段として、機械を打ちこわすという過激な事態にまで発展しました。


その結果、55人の労働者が流刑を宣告されることになったのです。


ナポレオン戦争の直接的余波を受けた形で動乱がおこり、さらに160人の囚人が、ニューサウスウェールズとバンディーメンズランドに送られました。


流刑に処された「反逆者」の中でも、「トルプッドルの殉教者」達は最もその名が高いでしょう。


彼らは当時トルチェスターの農場労働者として働いていました。


1834年、町々では騒乱が続発し、役人達はこれが村部へも飛び火してくるのではないかという恐れを抱きました。


こうした状況の中で、6人は秘密の誓いをたてたために有罪を宣告されたのです。

オーストラリアの歴史 3

シドニーに住んでいた上流階級の人々は、本国で上流階級に対して攻撃的であった男を使用人として取り立てるより、常習的こそ泥を使うことの方が多かったのです。


その為、泥棒達が地方に送られるケースはほとんど見られませんでした。


泥棒達が騒動をおこしたという話もほとんどありません。


たとえ騒ぎをおこす者があっても、それは200人中5人程度にしかすぎないのです。


1815年以降は、ランカシャーの工業都市からひんぱんに囚人が送られて来るようになりました。


19世紀初頭、最も人口が急増した地方は北部、及び北西部の州でした。


1801年から182年までの10年間に、ランカシャー州の人口は23%増加。


人口増加の中心が、北部のマンチェスターの綿工業中心部へと移り、これにつれてマンチェスターは英国有数の犯罪都市として、ロンドンと肩を並べる様になりました。


かりにロンドンの犯罪人が、都市が生んだ副産物であるなら、マンチェスターの犯罪人は、ほとんどが工場労働者階級の出現により生まれたものでした。


幼い頃から製糸工場の劣悪な環境の下で育ってきた独身の若者は、貧しさゆえに犯罪に走りました。


また、社会に対する反抗の手段として犯罪を選んだとも言えます。


ジェイムズ・インガムの場合はその顕著な例です。


ジェイムズは、マンチェスターに住む若い紡績工で19才の時に初めて犯罪に手を出しました。


1823年、終身に及ぶ流刑判決を受けてオーストラリアにやって来ましたが、その後も、つねに統治者との間でもめごとをおこすはめとなりました。

オーストラリアの歴史 2

その結果、流刑者が氾濫するという事態に陥り、まだほんの小さな植民地でしかなかった1820年代、及び1830年代初めのオーストラリアに重大な影響を及ぼしました。


オーストラリアには、全部で160000人にのぼる囚人が移送されましたが、その3分の2は、1820年から1850年までの30年間に送られた囚人でした。


囚人の総数が増大したのみならず、1790年代以来減少傾向にあった、植民地人口に占める囚人人口の割合も、1820年代に入り再び増加に転じました。


刑法の改正により、オーストラリアに送られる囚人の中でも、とりわけ凶悪犯の人数が増加します。


極悪な前科のある者、最も長い刑を宣告された者はタスマニアに送られました。


しかし、ニューサウスウェールズでは1830年代に入ってからも、送られて来る囚人のほとんどが初犯者達でした。


おそらく、1815年から40年にかけては、犯罪のみに身をやつした者の数が以前より減少したのでしょう。


元囚人・メリッシュの「回想録」が1825年に出版されましたが、その中で彼が描いた囚人像はフィリップ総督を初めとする初期の総督達が描いていた常習的な町のこそ泥という、ステレオタイプ化されたイメージとは全くかけ離れていたものでした。

オーストラリアの歴史

英国は、経済的混乱と失業というお荷物を背負い、ナポレオン戦争後の国際的和平の時代を迎えました。


18世紀の戦後不況の型とは異なり、この時代の社会的困窮状態、緊張状態はかなり長期に及びました。


一触即発の状態にあった経済的・社会的危機を反映し、犯罪が増加。


英国の人口は2倍に増えましたが、刑事訴追の件数は、600%もの増加率を示しました。


しかし、犯罪は一定の直線を描いて増加を続けたわけではありませんでした。


むしろ、犯罪による訴追件数は、経済が沈滞した後にそのピークを迎えます。


英国で、特筆に値するほど犯罪の減少を見た時代は、1840年代以降、世紀半ばに入り、経済が落ち着きを取り戻した期聞に限られていました。


犯罪が増加を続ける一方で、刑罰を科する方式も改訂されようとしていました。


1821年から1841年にかけては、「道徳革命」という風潮が生まれ、200種を上回る刑事罰の中から絞首刑の項目が削除されました。


長期間にわたる収監は、ほとんどの犯罪を罰するに適した方法であると考えられ、これが絞首刑の縄にとってかわろうとしていました。

おすすめです 3

ソウルという近代都市には、いまもまだ山や川の自然がゆたかに残っていますし、市民はそれをとても大切にしています。

自然を四季折々に味わえる日常は、子どもの育ちにも大人の癒しにも欠くことのできぬものです。

自然のなかで見たり、聴いたり、においをかいだり、風を感じたり、手で葉っぱをあつめたり、お弁当を食べたりして、五感をフルに働かせることは、ゆたかな実体験とともにことばをいきいきと働かせます。

人間の感覚はすべてことばとして受けとめられ、表現されます。その意味では「遊び」というのは、ことばの宝の泉です。遊べないというのは、イメージの貧しさを意味します。

この絵本はことばと遊びが一つのものだということを、よく表現しています。

おすすめです 2

現代の日常生活のなかにあるゆたかな生活感を、子どもたちと共にみいだして共有し、自分たちの行き方を見失わないようにしようという気持ちも伝わってきます。

ここに取りあげました絵本『パパといっしょに』は、現代の韓国の人々の生活感がよくあらわされている作品です。

ソウルという近代的な大都会のなかにある自然のゆたかさを再発見して、親子で共に自然のなかで遊び、自然に心ゆくまで触れる楽しさを、さわやかな物語と透明感にあふれた巧みな挿絵とで語りかけてくれます。

こういう日常感覚をわたくしたち日本人はいま、とかく忘れがちになっていないでしょうか。