アメリカの認識と構想 4

国連の場合は、アメリカの強い主張を受け入れて、今日ある集団安全保障体制を作るということになりました。


ここで、集団安全保障体制とはどういう仕組みなのかについて説明しておく必要があるでしょう。


また、この集団安全保障という考え方は、いわゆる軍事同盟(あるいは、憲章の言い方に従えば、集団的自衛権に基づく行動の仕組みと言い換えてもいいでしょう)とどう違うのかということを考えるとより分かりやすいと思います。


その点についても説明しておきます。


紙集団安全保障という考え方は、ワイトというイギリスの学者によりますと・・・


実はウェストファリア条約以後に主権国家を中心とする国際社会が形成されて間もなく欧州で生まれ、また試みられた秩序維持の仕組みであったそうです。


当時考えられたことは、欧州国際社会の秩序を破ろうとする動きを示す国家に対しては、他の諸国が協同してこれに当たることによって、秩序の維持と回復に努めるということでした。

アメリカの認識と構想 3

安保理が活動している間は、総会は動きを慎しむという考え方には立っていないのです。


この点は、軍事的な紛争解決が考えられる場合(第7章)と比較した場合の大きな特徴です。


・・・それでは、集団安全保障の問題に入りましょう。


アメリカが考えた、大国に軍事力を集中するということから出てくることでありますが、国連が国際の安全に対して目を光らせることを確保する上では、すべての軍事大国が国連が用意する仕組みに参加しなければならないということです。


そして、国連が用意する仕組みとは、集団安全保障体制でした。


もっとも、大国の軍事的参加を確保するための具体的な仕組みとしては、集団安全保障体制でなければならないということでは必ずしもありません。


大国を含んだ地域ごとの取り組みという形もありますし、現に国連はそういう形で地域紛争が解決されることを勧めています(第52条2項)。


あるいは、いい悪いは別として、伝統的な大国間の同盟、ナポレオン戦争後にできた4力国同盟とか5力国同盟というような形もあり得るわけです。

アメリカの認識と構想 2

なるべく平和的方法で解決することが望ましいということについては、2度の大戦を経た国際社会では広範な合意があったといえるのです。


軍事的手段は、非軍事的手段を尽くした上で、いわば万策尽きた段階で最終的にやむを得ず採用する非常手段であるという受け止め方があったことは、是非しっかりと記憶にとどめてほしいものです。


・・・なぜかといいますと、湾岸戦争に際して、アメリカは、かなり早い段階から軍事力行使の可能性を真剣に考え、平和的、外交的方法による解決に対して消極的だったという事実関係が次第に明らかにされているからです。


もっといいますと、アメリカ政府は、なるべく軍事手段による国際紛争解決を避けたいという憲章の立場を知っていたために、公式には外交的手段を尽くしているかのように装いながら、実は他の国々による外交的努力を含め、問題が外交的に解決される可能性を封じていったのです。


若干わき道に入り込みましたが、憲章は、国際問題をなるべく平和的に解決するために詳細な規定を設けました。


その際、大国中心の安保理が主要な役割を果たすことが予定されたことは当然ですが、すべての国連加盟国が集まる総会にも発言の余地を残したことに注目する必要があります。


アメリカの認識と構想

憲章の実際の規定はどうなったでしょうか。


もっとも重要な問題である集団安全保障の仕組みについてお話する前に、その他の注意しておいて頂きたい点をまとめておきます。


問題とされたことの一つは、国連が営むべき安全保障とはいったい何なのだということでした。


ソ連は狭く理解して、軍事面での安全保障を念頭において、限られた範囲での対応の仕組みを作ればいいと主張しました。


しかし、アメリカ、イギリスは、安全保障は広義にとらえるべきだと主張しました。


つまり、国際社会の安全保障を考えていく上では、軍事的な仕組みを考えるだけでは不十分であって、経済、社会、人道問題にも取り組まなければ完全を期しがたいということを主張し、それが通ることになりました。


また、紛争の解決といっても、常に軍事的解決しかないというわけではありません。


世界農産物市場の低迷 3

日本が「基礎的食料」の輸入制限をルール化しようとすれぱ一定のミニマム・アクセスを認めざるをえないし、他方現行の全面輸入禁止を継続しようとすれば、これをルール化できないというジレンマに直面しています。


いま一つは、米以外の国家貿易品目についてです。


これらについてもけっして完全な安全圏におかれているわけではありません。


そのことは国家貿易について一定のルールが課せられ、ミニマム・アクセスと価格(関税)基準が設定された場合を想定すれば明らかでしょう。


とくに価格設定がルール化された場合、先にみた小麦のような400%に及ぶ実質関税率はとうてい維持できないでしょう。


その点では米以外の国家貿易品目といえどもけっして安閑としてはいられないのです。


以上のように、日本農業における国境調整策はいま大きな転機に立たされています。

世界農産物市場の低迷 2

問題は、具体的には次のような形をとってあらわれてきています。


第一に、残存輸入制限撤廃問題です。


これについては88年の日米交渉において、牛肉・オレンジなど11品目の自由化が決定されました。


アメリカの主張にほぼ全面的に押しきられてしまったのです。


ただし、これで残存輸入制限問題がすべて片づいたわけではありません。


一方では、これら自由化品目の国内対策をどうするかという問題が残っていますし、他方では残されたでんぷん、脱脂粉乳等の非自由化品目についての自由化要求を、協定ぎれにさいしてアメリカが改めて持ち出してくる可能性があります。


第二に、国家貿易品目のあり方についてです。


これにはガット交渉の帰趨とも関連して二つの問題があります。


一つは米問題についてであり、現在の食管制度下での米の完全輸入禁止体制をはたして今後とも貫きうるかという点です。

世界農産物市場の低迷

日本が貿易自由化にふみきったのは1960年のことであり、世界的にみてかなり遅れており、直接の数量制限に代る手段を導入するタイミングを失したという点があげられます。


アメリカのようにウェーバーによる自由化の義務免除を取得することはもはや不可能でしたし、かといってECのように可変課徴金の導入も真剣に考慮されませんでした。


ややイージーに、従来の残存輸入制限をそのまま続けられるだろうと考えていました。


ガットとの整合性いかんという問題は、当時の政策担当者の意識にほとんどのぼることがなかったのです。


さらに、70年代までの農業をめぐる客観情勢がそれを助長しました。


60年代までのガット・ラウンドは関税交渉が中心であり、農業は事実上交渉の将外におかれてきましたし、70年代に入っても世界的な農産物貿易の活況は、各国の非関税障壁をそれ程大きな問題とするにいたらなかったのです。


・・・以上が裏目に出たのが80年代であり、世界農産物市場の低迷、日米貿易不均衡の拡大という一般的背景の下で、日本農業における国境調整のあり方が国際交渉の場で根底から問われるにいたったのです。

理想的な街になる可能性 5

3つめの土地利用はレジャー用地です。


この土地利用は構想のときからありました。


大規模なレジャーランドをつくろうという計画ですが、もちろん当時は東京ディズニーランドがくるという話はありませんでした。


このように埋立地は3つの事業、つまり住宅と鉄鋼とレジャーで始まりました。


第一期埋立地の土地利用はだいたいそのように割り振られました。


しかし第二期の埋立地については、その計画を見直そうという話も持ち上っています。


浦安市から見れば、埋立地は県の事業であり、自前の都市開発の活動を主体的におしすすめられる場ではありません。


また埋立事業が開始する前の人口は、2万から3万の街であったから、自前で埋立地の土地利用を制御できる力はありませんでした。


したがって千葉県から、ある意味ではお仕着せの土地利用を与えられたことになります。


千葉県の埋立地のなかでは、浦安市の埋立事業は遅れて始まりました。


浦安地域の海底の地盤は非常に悪いのです。


良いところで40メートルから50メートル、悪くなると70メートルから90メートル、海底の下まで杭を打たないと建物や土木構造物は建てられません。


このために大規模な工業団地をつくる場所とは始めから考えられませんでした。

理想的な街になる可能性 4

浦安市は埋め立てによって地域を4倍にしたと言われます。


今から40年くらい前、東京オリンピック頃の浦安市の市域面積は4・43平方キロです。


しかもそのなかには海面下の土地も一部含められていたほど小さな町でした。


それがここ4半世紀の間に千葉県の埋立事業によって約1400ヘクタールの土地が新しくつくられました。


それで約4倍に市域がふくれあがりました。


埋め立ては昭和39年から実際に始まりましたが、当時埋立地の土地利用は単純に3つに区分しただけでした。


一つは都心部に近く、東西線の延伸計画もある程度浮上してきていたので、埋立地住宅地として考えても、事業の採算は成立するのではないかということでまず住宅地を考えたのです。


2つは、当時東京オリンピックブームの都市改造のために、中央・墨田・江東区あたりから追い出され始めた鉄鋼加工業や卸問屋の移転先として、鉄鋼団地用地を考えたのです。


浦安市はこれらの各区からみれば川むこうであるという馴染みやすさも、移転を容易にしました。

理想的な街になる可能性 3

住宅市街地とリクリエーション市街地が複合した、家族が余暇時間をそこで十分に楽しめる理想的な街ができる場所です。


東京圏に住む市民にとってここの地域は重要です。


しかしこの地域はまず東京都と千葉県にわかれています。


そのうえ千葉県の中でも浦安市と市川市にわかれています。


つまり浦安市と市川市と江戸川区の3つの市区があり、しかも県は2つにまたがっています。


こういうところに一体的な計画をつくることは役所ではなかなかできません。


しかし、役所の縄張りを乗りこえて総合的な計画をつくるにふさわしい位置です。


東京に住んでいる人達にとっても、東京の東側臨海部に細長いけれど大規模な海岸緑地ができることは大変うれしいことにちがいありません。


子どもたちはサッカー スパイクをはいて、好きなだけサッカーをすることも可能です。


そういう意味で、市原から羽田にかけての地域の中で一番楽しみのある場所だと思います。


さて、浦安に関しては、NKKが1989年5月に行ったシンポジウム「東京湾のウォーターフロントを考える」から、貴重な資料を入手できたのでそれを紹介しましょう。


・・・以下は何名かの発言を、加筆し要約したものです。


埋め立てによって4倍になった地域浦安市の人口は現在10万ほど。


面積は16平方キロ程度と小さな市です。


三角形の格好をした街で、自動車を走らせれば5分以内で市の端から端に行けます。


交通条件は極めて良く、東西線の大手町からだいたい20分で市の中心部に到達できます。