« 2010年07月 | メイン | 2010年09月 »

2010年08月 アーカイブ

オーストラリアの歴史 4

その他の囚人達は、工業化が始まると間もなく生じた、反社会活動という直接的な抗議活動に加わって流刑を宣告されていました。


1812年から1822年にかけておこったラッタイトの反乱では、雇用条件に対する抗議の手段として、機械を打ちこわすという過激な事態にまで発展しました。


その結果、55人の労働者が流刑を宣告されることになったのです。


ナポレオン戦争の直接的余波を受けた形で動乱がおこり、さらに160人の囚人が、ニューサウスウェールズとバンディーメンズランドに送られました。


流刑に処された「反逆者」の中でも、「トルプッドルの殉教者」達は最もその名が高いでしょう。


彼らは当時トルチェスターの農場労働者として働いていました。


1834年、町々では騒乱が続発し、役人達はこれが村部へも飛び火してくるのではないかという恐れを抱きました。


こうした状況の中で、6人は秘密の誓いをたてたために有罪を宣告されたのです。

オーストラリアの歴史 5

1790年代、1800年代初期には、アイルランドでの政治的、社会的抗議活動が高まり、その結果流刑囚の中にアイルランド人が占める割合はかなり高まりました。


おそらく、1815年以降にオーストラリアにやって来たアイルランド人囚人の、5分の1はこの様な反政府活動に加わったために有罪判決を受けていたものと思われます。


その他の者は、様々な問題を抱えていたアイルランドの社会状勢の影響を間接的な形で受け、オーストラリアに送られるはめとなっていました。


19世紀初頭、アイルランド地方部は依然として混乱状態にありました。


増え続けていた人口は、わずかな作物を頼みの綱としていたため、大部分のアイルランド農民の生活は、じゃが芋の収穫量の良し悪しにかかっていました。


この様な状況の下で、単純な暴力事件が続発したのです。


一族同志の確執のため、アイルランド人の中で争いがおこり、一族もろともオーストラリアに送られました。


1830年にオーストラリアに向かったある船は、9人の殺人犯をのせていましたが、この9人は4家族から出た犯罪人でした。


1835年に出港した別の囚人輸送船は6組の兄弟、2組の親子、3人兄弟をのせていました。


一方、1839年のミネルバ号に乗船した100人のアイルランド人女囚のうち、21人は身内から囚人を出し、同じ船で護送中であるか、すでにニューサウスウェールズに送られている状態にありました。

About

2010年08月にブログ「お気に部屋」に投稿されたすべてのエントリです。新しい順に並んでいます。

前のアーカイブは2010年07月です。

次のアーカイブは2010年09月です。

他にも多くのエントリがあります。メインページアーカイブページも見てください。

管理人のお気に入り