オーストラリアの歴史 3
シドニーに住んでいた上流階級の人々は、本国で上流階級に対して攻撃的であった男を使用人として取り立てるより、常習的こそ泥を使うことの方が多かったのです。
その為、泥棒達が地方に送られるケースはほとんど見られませんでした。
泥棒達が騒動をおこしたという話もほとんどありません。
たとえ騒ぎをおこす者があっても、それは200人中5人程度にしかすぎないのです。
1815年以降は、ランカシャーの工業都市からひんぱんに囚人が送られて来るようになりました。
19世紀初頭、最も人口が急増した地方は北部、及び北西部の州でした。
1801年から182年までの10年間に、ランカシャー州の人口は23%増加。
人口増加の中心が、北部のマンチェスターの綿工業中心部へと移り、これにつれてマンチェスターは英国有数の犯罪都市として、ロンドンと肩を並べる様になりました。
かりにロンドンの犯罪人が、都市が生んだ副産物であるなら、マンチェスターの犯罪人は、ほとんどが工場労働者階級の出現により生まれたものでした。
幼い頃から製糸工場の劣悪な環境の下で育ってきた独身の若者は、貧しさゆえに犯罪に走りました。
また、社会に対する反抗の手段として犯罪を選んだとも言えます。
ジェイムズ・インガムの場合はその顕著な例です。
ジェイムズは、マンチェスターに住む若い紡績工で19才の時に初めて犯罪に手を出しました。
1823年、終身に及ぶ流刑判決を受けてオーストラリアにやって来ましたが、その後も、つねに統治者との間でもめごとをおこすはめとなりました。