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2010年07月 アーカイブ

オーストラリアの歴史 2

その結果、流刑者が氾濫するという事態に陥り、まだほんの小さな植民地でしかなかった1820年代、及び1830年代初めのオーストラリアに重大な影響を及ぼしました。


オーストラリアには、全部で160000人にのぼる囚人が移送されましたが、その3分の2は、1820年から1850年までの30年間に送られた囚人でした。


囚人の総数が増大したのみならず、1790年代以来減少傾向にあった、植民地人口に占める囚人人口の割合も、1820年代に入り再び増加に転じました。


刑法の改正により、オーストラリアに送られる囚人の中でも、とりわけ凶悪犯の人数が増加します。


極悪な前科のある者、最も長い刑を宣告された者はタスマニアに送られました。


しかし、ニューサウスウェールズでは1830年代に入ってからも、送られて来る囚人のほとんどが初犯者達でした。


おそらく、1815年から40年にかけては、犯罪のみに身をやつした者の数が以前より減少したのでしょう。


元囚人・メリッシュの「回想録」が1825年に出版されましたが、その中で彼が描いた囚人像はフィリップ総督を初めとする初期の総督達が描いていた常習的な町のこそ泥という、ステレオタイプ化されたイメージとは全くかけ離れていたものでした。

オーストラリアの歴史 3

シドニーに住んでいた上流階級の人々は、本国で上流階級に対して攻撃的であった男を使用人として取り立てるより、常習的こそ泥を使うことの方が多かったのです。


その為、泥棒達が地方に送られるケースはほとんど見られませんでした。


泥棒達が騒動をおこしたという話もほとんどありません。


たとえ騒ぎをおこす者があっても、それは200人中5人程度にしかすぎないのです。


1815年以降は、ランカシャーの工業都市からひんぱんに囚人が送られて来るようになりました。


19世紀初頭、最も人口が急増した地方は北部、及び北西部の州でした。


1801年から182年までの10年間に、ランカシャー州の人口は23%増加。


人口増加の中心が、北部のマンチェスターの綿工業中心部へと移り、これにつれてマンチェスターは英国有数の犯罪都市として、ロンドンと肩を並べる様になりました。


かりにロンドンの犯罪人が、都市が生んだ副産物であるなら、マンチェスターの犯罪人は、ほとんどが工場労働者階級の出現により生まれたものでした。


幼い頃から製糸工場の劣悪な環境の下で育ってきた独身の若者は、貧しさゆえに犯罪に走りました。


また、社会に対する反抗の手段として犯罪を選んだとも言えます。


ジェイムズ・インガムの場合はその顕著な例です。


ジェイムズは、マンチェスターに住む若い紡績工で19才の時に初めて犯罪に手を出しました。


1823年、終身に及ぶ流刑判決を受けてオーストラリアにやって来ましたが、その後も、つねに統治者との間でもめごとをおこすはめとなりました。

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